とにかく暑かった。スタッフのクルマに搭載された外気温時計が44度だもの。

長野県から参加してくれたアルファロメオ4Cの乗るEさんとスタッフのMとKが集合写真に間に合わなかったので卒業写真よろしく左上に。
参加した23歳から70歳まで平均年齢54.4歳の青年が暑さに負けず、午前中のイーブンスロットルとトレイルブレーキングの練習に続き、奥の深いコーナーばかりの筑波サーキットコース1000で速いラップタイムを刻むべく、ひたすら走り回りました。
午後の計測ラップだけで最もたくさん走ったのはIさんとMさんの57周。操作が身体に馴染むようペースを上げ続けるようにアドバイスしたら、Sさんがものの見事に短いセッションを合計すると56周走って56周目にベストラップ。そのパターンを繰り返せばもっと速くなりますよ、Sさん。

ユイレーシングスクールが初めての方が3名。サーキットを走ったことのない方が2名。ユイレーシングスクールのカリキュラムはどんな方でも安全にクルマを動かすコツを覚えられます。
実は、一時期ユイレーシングスクールを受講した方を対象にスクールレースを開催していたことがある。
1999年に当時自動車メーカー系では見られなかったドライビングスクールを開校した目的はふたつ。ひとつはクルマに興味はあるけど動かすことにはそれほど熱意が湧かない人に運転を上手くなってもらうこと。これが『所有欲から使用欲への転換』。もうひとつは運転が好きな人にもっと運転を上手くなってもらうためにレースを体験してもらうこと。これが『絶対的な速さから相対的な速さへの転換』。
ひとつめの目的は比較的簡単に達成することができた。2000年から筑波サーキットの運営母体である財団法人日本オートスポーツセンター(当時)の委託を受けて年間20回余りのドライビングスクールを開催したから、サーキット走行なんて縁がないと思っていた人が大勢参加してくれた。ユイレーシングスクール流のカリキュラムをこなしてもらえば運転が上手くなり、サーキットもそれなりに走れるようになるのは実証済みだ。
サーキットなんか危ないとか関係ないと言っていた人がYRSドライビングスクールを通じてサーキットを走ることにはまった。ふだんでは出せないスピードで走り、公道では経験できない加速度を感じる。愛車の性能を存分に発揮してあげられる。筑波でもFSWでもユイレーシングスクールの卒業生がライセンスを取得しスポーツ走行にいそしむ光景が繰り広げられた。
それは喜ばしいことなのだけど、こんな声も聞こえてきた。「なかなかタイムが縮まらない」、「だれだれさんに負けた」、「タイヤを換えないとタイムがでないのか」等々。要するにサーキットを走るなら速くなければならないという思い込みが底辺にあった。
しかし何度も言うけど、スポーツドライビングを含むモータースポーツは世界でもっとも不公平なスポーツだ。乱暴な言い方だけど、銭このある人にはかなわない。クルマの改造がその典型。とにかく費用をかければ優位に立てる。しかしそれは、絶対的な速さを追いかけているだけで、必ずしも運転手が速くなることとイコールではないのも事実。
そこで運転を教えている立場上、クルマの速さではなく、運転手の上手さと頭脳が速さの決め手になる場を用意することにした。ヨーイドンで競争して誰の運転が速いか決めようというわけだ。しかもクルマの速さだけでは勝てない工夫を織り込んだ。ただモータースポーツには危険が伴う。だから参加するにはユイレーシングスクールを受講してクルマを思い通りに動かす術を学ぶことをスクールレースの参加条件にした。
こうしてユイレーシングスクールの卒業生を口説き、最初に始めたのがYRSスプリントとYRSエンデューロ。

FSWショートコースのゾクゾクする
YRSスプリント ロードスタークラスのスタート
ショートコースの同時出走は15台までだけど
安全を重視するユイレーシングスクールには特例が認められた
YRSスプリントは強化クラッチをおごる意味がないようにローリングスタートとした。スタートとゴールの興奮を何度も味わえるように予選プラス3ヒート制にした。都合4回もチェッカーフラッグを受けられた。2004年に開催したYRSスプリント筑波の結果を見てもらえばどんなレースだったか想像がつくと思う。
・2004年2月28日開催 YRSスプリント筑波 結果

FSWショートコースの息を飲む
YRSエンデューロ のスタートシーン
オリジナルのルマン式スタートにこだわった
ドライバーがエンジンキーを持って走る
YRSエンデューロは不必要な競争を避けるためにピットインの時間をキッチンタイマーで制限した。ユイレーシングスクールが日本で初めて披露した。早くピット作業が終わってもコースインできないのだから慌てる必要はなかった。速いクルマが勝ってばかりじゃ面白くないし、全開で走ると勝てるのもつまらないから、130分の時間レースとして燃費を気にしながら走らないとガス欠でゴールできないようにした。2005年に開催したYRSエンデューロの結果を見てもらえばどんなレースが繰り広げられていたかがうかがえる。
・2005年7月30日 YRSエンデューロ筑波 結果
YRSスプリントもYRSエンデューロもそれなりに好評を博し、サーキットなんて縁がないと思っていた人やレースなんて危ないといぶかしがっていた人も、他人と競争することにのめり込んでくれた。ロードスターがポルシェに勝つ楽しさを覚えてくれた。ラジアルタイヤでSタイヤより速く走る技術を身につけた。まさに『絶対的な速さから相対的な速さ』への転換だった。
そして最後に始めたのがYRSオーバルレース。サーキットを借りるのはそれなりに費用がかかるから参加費も高くなる。できるだけ手軽に(決して気軽にではない)多くの人にヨーイドンをしてほしいと思っていたのだが、YRSオーバルスクール卒業生に水を向けても「グルグル回るだけでしょ」とか「危ないんじゃない」とつれない。一計を案じてYRSオーバルスクールの開催日に試験的にやってもらった。
結果は。FSWジムカーナ場にパイロンで作ったオーバルコースで8周のヒートレースをしただけで、クルマから降りた参加者は地面にへたり込んだ。走り慣れていたサーキットならそんなことはなかったのだろうが、常に周りにクルマがいて、一方方向にしか曲がらず、長い間横Gに翻弄されるオーバルレースは勝手が違った。
笑いながら言ってやった。「みなさんの運転力はそんなもんですか? 邪まなことを考えて走っていたのではないですか? もっといけると思いますけどね」。

YRSオーバルレースFSWの原点
FSWジムカーナ場に作ったパイロンコースを
息を飲んだまま走る参加者
みんな一生懸命走っていた
それからというもの、広い駐車場にパイロンを並べて作ったオーバルコースでのヨーイドンがユイレーシングスクールの代名詞になった。2004年に開催したYRSオーバルレースFSWの結果を見てもらうと、いかに充実したレーシングスクールが行われていたかが想像してもらえると思う。
・2004年6月13日 YRSオーバルレースFSW結果
と言う訳で、 来年YRSオーバルスクールを受講した人を対象にYRSオーバルレースFSWを再開します。いずれかのYRSオーバルスクールを経験された方はぜひ参加して下さい。運転操作が一皮もふたかわもむけること請け合いです。
次のふたつの動画はYRSオーバルレースFSWのシーン。初めて参加する人はここまでの接戦は難しいだろうから、並走の練習をしたり追い越しの練習をしたり、とにかく無意識に走れるようにアドバイスをします。YRSオーバルレースFSWを開催するコースは幅が14mもあります。高速道路の3車線より幅広です。大井松田からの下りをヒラリヒラリと走るのと同じです。
ユイレーシングスクールを受講してくれた方々が、大の大人が一生懸命になって走るのが好きです。過去にYRSオーバルスクールを受講された方、来年開催するYRSオーバルスクールFSWを受ける予定の方は、ぜひヨーイドンを味わうことを想像してみて下さい。

クルマはますます大きくなり続け
どんどん豪華になり速くなり
おせっかいを焼きたがるようになった
しかしクルマはいつの時代も人間の良き相棒だ
相棒だから一生懸命付き合わなければならないと思う
ユイレーシングスクールの主宰者として、個人的にはクルマはかけがえのない相棒だと思っている。何よりも高校1年の春に軽免許をとって全長3m、排気量360ccの自動車を公道で運転した時だった。間違いなく世界が変わったことを気づかされ、さらにクルマは人間に自由と時間を与えてくれる『人間能力拡大器』だ、一生付き合っていくべき対象なんだと確信した。

以来60年。クルマを相棒として尊敬の念を抱き、相棒とどうやってうまく付き合うかを考え続け、サーキットを走ればまだまだ速くなり、76歳になっても運転を楽しんでいる自分に気づき、改めてクルマの存在をいとおしく思っている。
だから、もっともっとクルマを上手に動かしてあげたい、クルマの性能をキッチリと使ってあげたいという思いが強い。
だから、ユイレーシングスクールに来る人達にももっとクルマを好きになってほしいと思う。
だから、クルマさんと付き合ううえで大切なことを話しておきたいと思っています。

世の中には様々な道具がある。包丁のような単純な道具から、高度で複雑な技術で作られたクルマまで、基本的に人間の営みを豊かにするために道具は生まれてきた。ただ、どんな道具にも使い方がある。使い方を間違えれば道具はその機能を発揮することができないばかりか、人間に牙をむくことさえある。
みなさんは包丁でモノを切る時に引いてきりますよね。なぜ引いて切るほうがよく切れるか想像したことがありますか。
刃物の刃は薄いほうがよく切れるのは広く知られています。しかし包丁の耐久性を考えるとある程度の刃の厚さは必要です。そこで薄くはない刃のついた包丁を引くことで、『人為的に』包丁の刃の厚さを薄くしているのです。包丁の刃の厚みが薄くなるわけがないと思う方は、2011年1月にアップした ルノー・ジャポンの公式ブログ「第6回 道具を使う」 を読んでみて下さい。

みなさんは小学校の手洗い場に並んでいる蛇口から水が滴り落ちているのを見たことはありませんか。おおかたは水が落ちてないのに、中には滴り落ちている蛇口がある。そんな光景です。
たくさんの子供が開け閉めする蛇口ですが、子供が蛇口の使い方を知るよしもありません。今はカートリッジタイプの蛇口が増えたので水漏れは少なくなりましたが、パッキンを使っている蛇口は漏水と背中合わせです。ではどうすればパッキン式の蛇口を長持ちさせることができるのでしょうか。これも道具の使い方の一つです。
水を止めるために蛇口を思いっきり閉めるのは間違いです。いったん蛇口を閉めて水を止めるのはかまわないのですが、その時に力が入りすぎてパッキンを必要以上につぶしている可能性があります。パッキンはつぶれることを繰り返しているうちに厚みがなくなり水を完全に止めることができなくなり、結果として水が滴り落ちることになります。正解は、いったん水が止まったら水が蛇口から漏れる寸前までハンドルを戻す、ことです。
意識してハンドルを戻そうとすると手間はかかるかも知れません。ですが、パッキンがつぶれないように閉めるのが正解だと理解していれば、そのうちに必要以上の力で閉めることはしなくなります。

クルマも運転も同じです。道具としての包丁や蛇口とクルマには大きな開きがありますが、使い方を間違わなければきちんと機能してくれる道具です。ユイレーシングスクールは道具の使い方としての操作を理論的かつ合理的に理解してもらい、それらをたたき台に反復練習できる機会を設けています。全ては道具としての相棒であるクルマさんに気持ち良く走ってもらうためです。
みなさんもぜひユイレーシングスクールに遊びに来て下さい。真剣に遊ぶ方法をお教えします。
なかなか減らないどころか、増えそうな勢いのペダルの踏み間違いによる事故。最近驚くのは踏み間違いをするのが、いわゆる後期高齢者とは限らないこと。何が起きているのか。運転という行為が軽んじられる風潮がなければいいと思うのだけど。
そこで、2019年8月10日にブレーキペダルの踏み方について、提言というわけではないけれど、以前ユイレーシングスクールのサイト内にあるYRS PAGESに書き込んだものを改めて転載したいと思います。

先日来、ルノー・ジャパンのブログで「ブレーキペダルとかかと」というテーマで数回アップしました。スロットルペダルとブレーキペダルの踏み間違いによる事故が続発していたのを受け、ユイレーシングスクールで教えているように、かかとをつけたままペダルを踏みかえれば防止できるのではと提案したのがきっかけです。
最初に第385回 右足の動かし方 について提案。
それを読んだ卒業生とスタッフ数名から、「教習所ではかかとを浮かせてブレーキペダルを踏め」と教えていますよとの情報。 ボクは軽免許も普通免許も教習所には行ってないので何を教えているかも知らない。だから『 エッ ! 』 だった。
それで、いくらなんでもそれはおかしいだろと、 第398回 衝撃の事実 をアップ。
でも待てよ、ひょっとするとかかとを浮かすのに肯定派の人もいるかもわからないから意見を聞かせてほしいとこのブログで呼びかけた。
すると数名のYRS卒業生からメールが届いたので、
Aさんからのメールは、 第400回 ブレーキペダルとかかと 1 で。
Mさんからのメールは、 第401回 ブレーキペダルとかかと 2 で。
Fさんからのメールは、 第402回 ブレーキペダルとかかと 3 で紹介。3名ともYRS卒業生だとは言え、全員かかとをつけたままの踏み換えに賛成。

すると今度はスタッフのYから、「かかとをつけてペダルを踏み換えることを勧めているサイトがありますよ」との情報。URLを送ってもらったら、あのGAZOOのサイトの中にあるドライビングスクールの頁にイラストつきで 『ペダルの踏み換え方』 の説明があった。
ことの顛末は 第407回 ブレーキペダルとかかと にまとめてあるけど、ユイレーシングスクールは1999年に日本で開校してから一貫して、ジムラッセルレーシングスクールがそうであったように『 かかとを同じ位置に固定したままスロットルペダルとブレーキペダルを踏み換える 』ようにアドバイスしてきた。
かかとを固定するのはペダルの踏み換えを的確にするだけでなく、かかとを支点につま先を動かすことで繊細なペダル操作を可能にする。両足のかかとを支点にすれば上半身の安定にもつながるから、ユイレーシングスクールとしては公安委員会指定の教習所ではかかとを浮かせてブレーキペダルを踏むことを教えているとしても、かかとを固定することを強く勧めている。
GAZOOのサイトの方針でリンクはホームページに貼るように指定されているけど、トヨタのお客様相談室に主旨をお伝えして特別にユイレーシングスクールのサイトで当該頁を直接紹介する許可をいただきました。ぜひクルマ情報サイトGAZOOの、クルマの運転の基本 ~上手なアクセルとブレーキ操作(オートマ編)~ の頁をめくってみて下さい。そしてどうするのがペダルの踏み間違いを防ぐのか、今一度思い巡らせてもらえればと思います。そして、かかとを浮かしてペダルを踏み換えている人が近くにいたら、こんな方法もあるんだよ、と伝えてもらえればとも思います。

さて。一度染みついた運転操作を変えることは難しいかも知れない。それでも、これだけニュースになっているのだから踏み間違いが現実に起こり得るということは想像できるはずだ。クルマは便利な道具であるけれど白物家電とは違う。自分が移動しているのだから状況は刻一刻と変わる。油断して運転するのはやめたほうがいい。踏み間違いに限らず、間違った操作をしないための工夫を怠らないほうがいい。
世間一般に『自分は大丈夫だ』と思っている人が多いからなのか、踏み間違いにいたらないにしても、それ以前にサンダルやつっかけのようなかかとのない履物で運転している人が多いのに驚く。経験上、運転はなめないほうがいいと思う。

第832回 記憶のかなたの1
第833回 記憶のかなたの2
第839回 記憶のかなたの3
第846回 記憶のかなたの4
第857回 記憶のかなたの5
第858回 記憶のかなたの6 からの続きです
渋谷にあるレーシングクォータリーに着くと、シャッターが開いたそれほど大きくないガレージの中にフォーミュラカーのシャーシらしきものがおいてあった。そばでひとり黙々と手を動かしていたのがまぎれもない解良さんだった。何年ぶりだろう。
恐る恐る声をかけた。『あの~、昔原町で模型飛行機を一緒に飛ばしたことのある吉田ですが… 』。
チラとこちらを見た解良さん。ほどなくして思いがけない言葉が返ってきた。『吉田君じゃないか』。昔と同じゆっくりとした温和な話し方。10数年ほど前のことを解良さんは覚えていてくれた。思わず涙が出そうになったことを覚えている。
手を動かし続けていた解良さんが何かを探すそぶりをした。直感的にトーミリのスパナだと思った。手に取って差し出す、解良さんが『気が利くじゃない』と。ここまではかろうじてイメージが残っているものの、実際何を話したかは覚えていない。だが、解良さんが紹介してくれたおかげでレーシングクォータリークラブ(RQC)の事務局に潜り込むことができた。
クルマが好きなのは間違いなかった。ただ、どこへ行けばいいのかわからなかったけど解良さんを通してモータースポーツという道が目の前に開き始めた。このまま進むのがいいと直感した。
当時JAF公認クラブの中で唯一自動車メーカー系ではないRQCはオートスポーツ誌とタイアップして富士スピードウエイや筑波サーキットでレースを主催するかたわら、三栄書房と組んで東京レーシングカーショウも開催していた。解良さんはRQCが主催していたミニカーチャンピオンシップレースに出場させる軽自動車のエンジンを搭載したフォーミュラカーを作っていた。RQCでは実にいろいろなことを経験させてもらった。レースの主催、ライセンス講習会の開催、メカニック(の見習い)。ただのクルマ好きでは得られないような視点を身につけることができた。
RQCの事務局はいろいろと面白かった記憶がある。富士スピードウエイのレースでコースオフィシャルにお弁当を配りに行き有名な30度バンクが歩いては登りにくいほど急だったのを知った。筑波サーキットで開催するレースの宣伝にポスターを抱えて渋谷から電車を乗り継ぎ関東鉄道の宗道駅近辺に貼りに行った。初めて単線の鉄道を経験した。
その後、RQCは政治的な理由で身売りしたものだから、前々から誘われていた雑誌の世界に目を向けた。
レースレポートを書いてみないかと誘われてドライバー誌に記事を書くようになった。後に八重洲出版の嘱託になり企画を出したり「トムヨシダのレッツカート」という連載を2年続けた。星野一義さんにも連載してもらった。競合しない婦人画報社のメンズクラブ、双葉社のMr.ダンディ、山海堂のオートテクニック、三栄書房のオートスポーツには執筆し続けたので、取材を通して見聞は広がっていった。『トムヨシダのレッツカート』というレーシングカート界では初めての4色刷りの単行本を双葉社から出版した。
日本オフロードレース協会の事務局でレースの開催にも携わった。日本テレビの木曜スペシャルの企画にも携わった。大須賀海岸でバギーのジャンプ大会をやったり、筑波サーキットで10輪ダンプのレースをやった。桑島さんや木倉さん達のレーシングドライバーと本職の運転手の競争だった。勝負は本職の勝ち。本職は10輪ダンプをカウンターステアで乗りこなしていた。
1976年。前年の日本オフロードレースシリーズのチャンピオンの池沼純一さんに本場のオフロードレースに挑戦してもらうことになった。メキシコ領カリフォルニア半島のバハカリフォルニア地区の420マイルで行われたSCORE BAJAインターナショナルレース。事務局兼広報として同行することになった。
72年にギアレースの取材にマカオへ。ヨーロッパでF2レースに挑戦していた桑島さんの応援でしばらくイギリスに滞在したことはあるけどアメリカは初めて。 その昔。自分は乗れなくて悔しい思いをしたけど、幼いアメリカ人の子供たちが楽しそうに乗っていた屋根のないエンジン付きの自動車がある国へ行く。

45年ぶりの再会
最近の解良さんは1時期日本のモータースポーツの華だった
GCマシンのレストアに取り組んでいる
ボクはと言えば
クルマを動かすことへの興味がが薄れず
自分の経験と知識を伝え残す作業を続けている
<続く>

今年2回目のYRSオーバルスクールFSW
走行開始直後はドライだったものの
しばらくしたら雨がおちてきて
練習にはなったけどウエットな1日

いつも四国は高松から来てくれるIさん
ツーデーも鈴鹿もと嬉しい限り

メガーヌⅢRSトロフィーからトロフィーR
いつも間にかウルティムに

久しぶりのHさん
元気だったみたいで安心

確かメガーヌRSでスクールに来たのはHさんが最初
2013年8月のオーバルスクールFSWと記録にある

車名がいつもと違うから
朝一番で「乗換えですか」と聞くと
小さな声で「増車です」

少しばかり性格の異なるクルマと
対話というか格闘というか

ユイレーシングスクールに初参加のMさん
20年近くドイツ製の重たいダンナ車に乗っていたそう
A110は衝動買いしてしまったとか

後期高齢者のMさん
ずっとお付き合いしますから
また走りに来て下さい

スタッフFと愛車

スタッフYと愛車

ルノー・スポールとアルピーヌ
いいクルマです

今回のYRSオーバルスクールFSWには
41歳から76歳までの平均年齢58歳の少年14名が参加
次回の富士スピードウエイ駐車場で開催するユイレーシングスクールは
8月23日(土)のYRSドライビングワークショップFSWです
開催案内はこちらからご覧になれます

こんなクルマも参加していました
Sさんのランボルギーニ ウラカン
640馬力を8,000回転で生むNAエンジン
後輪駆動だから運転に油断はできない

こんなクルマも参加していました
Nさんのマクラーレン Artura Spider
Nさんの2台目のマクラーレンはハイブリッド
独特の加速を見せます
ユイレーシングスクールでは7月24日(木)に筑波サーキットコース1000を終日使うYRS筑波サーキットドライビングスクールを開催します。コーナリングの練習から始めるのでサーキットを初めて走る方も安心して参加できます。
・YRS筑波サーキットドライビングスクール開催案内はこちらから

第832回 記憶のかなたの1
第833回 記憶のかなたの2
第839回 記憶のかなたの3
第846回 記憶のかなたの4
第857回 記憶のかなたの5からの続きです
子供が乗れるエンジン付きの自動車を手に入れることができないとわかってからの日々を思い出すことができない。落胆の度合いが激しすぎたのだろうか。熱中していた模型飛行機を続けていればそれなりの記憶があるのだろうけどそれもない。おぼろげながら思い浮かぶのは、父親の転勤にともなって区立富士見台中学1年の冬に名古屋市立振甫中学校に転校してからのこと。
同級生に古田康基がいた。動くものが好きという点で共通していた。確か毎月古田がモーターマガジンを買って少年がモーターファンを買って交換して読み漁った。機械加工業の息子であった古田が2年の夏休みの宿題にオートバイを作ると言い出した。小遣いを持ち寄って鉄鋼所でパイプを組んでフレームを作り、リコイルスターター付きのピジョンの200㏄エンジンを積んで、土木用の1輪車のタイヤを取り付けて走れるようにした。担任の鶴田先生は、とんでもないものを作ったなと驚いていたけど、ほこりが舞い立つ校庭で走らせてくれた。
家業を継ぐ古田は東山工業高校に、少年は千種高校に進んだ。同級生に舘 ひろしがいた。高校生活が始まると、前から示し合わせてあったように週末は庄内川の自動車練習所、と言っても無人の教習用コースがあるだけだが、に古田の親父さんが運転するマツダB360に乗って通った。当時16歳で取得が可能だった軽免許をとるのが目的。決して巧くはなかったはずだが本物の自動車を動かせるようになり平針の運転免許試験場で試験を受けた。確か学科も実技も1回でパスした。遅生まれが幸いした16歳の5月のこと。
遅れて6月に軽免許をとった古田の周りには同級生が親のクルマを借りたり、先輩が自慢のクルマで乗りつけるようになった。たまにクルマを持たない少年にも運転させてくれた。ただし名古屋弁の「吉田~ぁ、下手だでかんわ」のクリティーク付ではあったが。
再び父親の転勤に付き合わされて高校2年の夏に熊本に移り住んだ。当時熊本には県立の普通科が2校しかなくしかも進学校。勉強が得意でない少年はバンカラが風を切っていた鎮西高校に転入した。名古屋では発売日に手に入った自動車雑誌が数日、遅ければ1週間遅れでしか店頭に並ばなかった。高校に上がってからサッカーに没頭していた少年だったが、鎮西高校にはサッカー部がなく雑誌もすぐに手に入らずクルマの虫が騒ぎ出したので、松橋の運転免許試験場に普通免許の実技だけを受けに行き一発で合格。夏休みを利用して熊本にやってきた古田とホンダレンタカーでS600を借りて阿蘇山の周りを走り回ったことが思い出される。あれは開放的だった。
しかし少年の周囲にはクルマと縁がない世界が広がっていて、名城大学交通機械科に入って鈴鹿サーキットでコースオフィシャルとして旗を振るようになるまで、どこで何をした、何をどうしたというような具体的なイメージを思い出すことができない。
だからコースオフィシャルはその頃の生きがいだったと言っても過言ではない。鈴鹿サーキットのフルコースのレースには全て参加した。一生懸命旗を振りコースを掃いた。1年もたたないうちに審査員室から丸見えの4番ポストの箱長(ポスト主任)に抜擢された。F2000レースに参加していたレーシングドライバーが走り方を聞きに来た。手が届くような目の前を全開で走り抜けるレーシングカーの動きを観察できたことは、クルマが速く走るためのメカニズムを理解するのに役った。
ある日。たまたま目にしたオートスポーツ誌だったか。東京の渋谷のフォーミュラカーを作っているガレージを紹介していた。よく目を通すとあの解良さんが写っているいるではないか。目の前がパァーッと明るくなった。あの模型飛行機の解良さんがレーシングカーを作っている。その日の夜、バスに乗って東京に向かった。
将来自動車関係の道に進もうと選んだ大学だったが、時は大学紛争真っただ中。ストや閉鎖など、将来を描くために机に向かう気を殺がれる毎日を送っていた。東京へ向かうバスの中で大学を辞めることになるなと思ったのは自然な流れだった。
昨年の暮れ。FBで交流はあったものの、実際にお会いするのは45年ぶり。それでも解良さんは、その昔少年が当時渋谷にあったレーシングクォータリーを訪ね再会を果たしたことを覚えていてくれた。2度目の再会だった。
<続く>
第832回 記憶のかなたの1
第833回 記憶のかなたの2
第839回 記憶のかなたの3
第846回 記憶のかなたの4 からの続きです。

少年が育った品川区大井出石町。静かな住宅地だったが近くにPXがあったのでカーキ色に塗られたジープが頻繁に走っていた。それ以外クルマと言えば八百屋さんのオート三輪とおわいやさんのバキュームカーを見かけるほどだったが、自動車は少年の心に大きな影響を与えていた。
圭ちゃんと解良さんの後について居住区に向かって歩いていると、白い壁の目立つ宿舎の向こうから、ダッ、ダッ、ダッというエンジンの音が聞こえてきた。
飛行機が展示してある立川飛行場のエプロンは、たくさんの人でごった返しざわめきこそ他所ではありえないほど大きなものだったものの、発動機の音は皆無だったから低音の排気音は間違いなく居住区からのものだった。歩いて行くとかなり大きな空間が広がっていた。そこには周囲を芝生で囲まれたアスファルトのコースがあった。見た感じでは運動場のような楕円形をしたコースのようだった。
見たこともない景色を目の当たりにした少年をさらに驚かせたのは、そのコースを屋根のない小さな自動車が何台も走り回り、それらを運転しているのが少年と同じぐらいの子供たちだったこと。
「なぜ?」、「なんで?」少年には小さな自動車が走り回っているのはもちろん、それらを操っているのが自分と同じ子供だということが信じられなかった。そこが米軍基地で日本の日常とは異なるということが少年には理解できていなかった。ただただ同い年ぐらいの子供が、ふつうは大人が運転する発動機つきの自動車を操っていることが信じられなかった。
戸車をつけたリング箱で自動車という乗り物に近づいたという感覚は抱いていたものの、目の前に広がる光景は少年の意識をいっきに本物の自動車に向かわせるのに十分だった。その日、少年は家に帰るなり年上のいとこ連中にお願いして、なんとかあの子供が乗っていた小さな自動車の正体をつかもうとした。少年は猛烈に欲しいと思った。寝ても覚めてもどころの話ではなかった。もはやあれほど熱中した模型飛行機も眼中になかった。
いとこがどうやって調べてくれたのかは記憶にないけれど、立川基地で見た少年が乗り回していた発動機付き自動車がアメリカ製で、横浜にあったミゼッティ工業という会社が輸入していたことを突き止めてくれた。
買おうと思えば買えた。ただし価格が当時の父親の月給の6倍ちかく、34万円もしたことは今でも覚えている。つまり、あの自動車は立川基地内のアメリカ人向けであって、日本人が購入するということは非現実的だった。少年の夢は一瞬にしてついえた。
しかし、この日の出来事は少年にアメリカへのあこがれを植え付けた。
アメリカの自動車雑誌を取り寄せてアメリカ独特のモータースポーツについて少しでも知識を広めたいと思っていたある日。あの日立川飛行場で見た幼い子供が操る屋根なしのクルマの正体がクォーターミヂェットと呼ばれるれっきとしたレーシングカーであることを知った。インディアナポリス500マイルレースを走るチャンプカーを頂点としたオープンホイールレーシングの裾野であることもわかった。
【参考】
・クォーターミヂェット オブ アメリカ
・クォーターミヂェット ウィキペディア
・立川基地三軍統合記念日基地公開 1960年5月21日(土曜日)、22日(日曜日)
解良さんとの出会いがボクの人生を決定づけたと言っても言い過ぎではない
今回も嬉しいことに初めてエンジンドライビングレッスンを受講される方が10名。3月も10名の新規参加者があったから、「所有欲から使用欲への転換」がテーマのエンジンドライビングレッスンの裾野が広がりつつある。
参加者が30名、編集部からの参加が3名。計33名の20歳から71歳まで平均年齢56.3歳の青年が愛車との対話を楽しみました。

朝一番の編集長の挨拶
エンジンドライビングレッスンを開催する目的を改めて説明
そのさなかにおどけるKさん
Kさんが初めてエンジンドライビングレッスンを受講したのは2004年4月
以来エンジンドライビングレッスンは60回参加
ユイレーシングスクールのオーバルスクールやツーデースクールにも来てくれました

午前中はジムカーナ場にコーンで作ったオーバルコースで
イーブンスロットルとトレイルブレーキングの練習
午後は筑波サーキットコース1000に移動してできるだけ速く走ります
走行が終わって記念撮影
全員が笑顔・笑顔・笑顔

サーキットを走ったことのない方も
エンジンドライビングレッスンが初めての方も
エンジンドライビングレッスンに20年以上通っている方も
1日でみなさんそれなりにドライビングポテンシャルの向上が見られました

季節は春から初夏へ
スタッフのユニフォームを作ってみました
胸に蛍光イエローの刺繍を入れたバーガンディーのポロ
息を止めてお腹をへこましてるのはOさん
今年のエンジンドライビングレッスンは残すところあと1回。10月2日(木)に開催します。スロットルペダルを床まで踏んだことのない方は、ぜひ所有欲から使用欲への転換方法を体験してみて下さい。

産地によって旬が異なると聞いてはいたけど

好きなものは好きとばかりに
自分の誕生日祝いに

ご馳走さまでした